大学と予備校
「格差」という言葉が日常的に出回る厭な時代です。月曜日の夜8時に「水戸黄門」が放映されなくなって「格さん」が出なくなって代わりに出て来たのが「格差」なんて、洒落が洒落でなくなりつつあります。
それでも受験産業というのは因果な商売で、客単価が高止まりしています。ネットニュースやなんかでは「脱偏差値時代の到来」とか言いながら、3月末の「サンデー毎日」などを見ると年中宜しく「東大合格者アンケート」などが取り上げられています。
では高いカネを払って予備校で何を習うかというと、受験テクニックや受験マニュアルです。それ自体は完全否定するつもりはありません。実際にそういう事を知っていないと解けない問題もあるからです。実際に自分も経験しているのでそもそも否定できるわけがありません。
ただ、ちょっと疑問に思うことがあります。
予備校が出す解答速報などを見ていて思うのですが、「やや難化」とか「易化」とか論評がされているのですが、本当にそうなのかなと。特に国語などでそう思うことが多いです。
大体、国語なんて日常的に使っている日本語で「読む→考える→書く」をやる訳ですから、実はそんなに難易度が変化するなんて考えられないのですよね。
もっと言うと、出題者側は過去問の難易度をどれだけ考えているのかなとも思うのです。彼ら(大体助教から常勤講師クラス)の本職は学術研究であって入試問題の作成ではないことから、精々「こういうことを理解出来ていますか?」とか「最近、こういうことを訊く問題がないので、ちょっとやってやれ」とかその程度だと思います。
あたかも客観的に測定した筈の難易度ですが、そう考えると極めて予備校の主観に基づく判断なのではないかなと思います。
予備校の限界
では、予備校が判断の基準とするのは何かと言うと、それこそ受験マニュアルや受験テクニックだと思います。出題傾向がコロッと変わると「やや難化」とか「難化」と評価されるのが一般的ですが、これは自分達の培養したマニュアルでは対応が難しいと自白しているようなものではないかと思います。特に国語は上述した事情からそう思います。
なぜそういう事が起きるかというと、予備校で受験テクニックや受験マニュアルをマスターすると問題を解きやすくなり、「理解した」と実感でき、それでもう十分だと感じてしまうからです。
けれども実際に大学が学生に要求している能力ってのはそれだけではなく、もっと根源的なものも含まれていて、実はその根源的なものに対してどこまで深く理解出来ているかで(受験テクニックのマスターの度合いも含めて)合否が決まるのではないかと思います。
確かに一定の出題傾向はあるでしょうが、出題者もバカじゃないから予備校マニュアルの裏を搔く事もします。けれども、大学側が学生に求める能力は大して変わらないはずです。変わってしまえば大学の存続にも関わりますから。
それが「基本」です。教科書に書いてある内容です。「基本」とは「特定の分野で反復継続して成果を得続けるために必要不可欠な技能」を言いますから。
先程から国語の話ばかりをしているので(他の科目にも言える事ですが)国語を例に取りますが、確かに国語の教科書は味気ない内容です。まともに教科書を見開いたこともない教師や生徒も多いと思います。
それはそれで構いませんが、少なくともなぜ国語という科目があるのか、特に古文・漢文という科目が廃止されないのかという事位は考えても良いと思います。
それを自分なりに明確に説明できれば「基本」をマスターするのも簡単だし、教える資格があると思います。
敢えて言うと、それがデジタル・ジャングルのこだわりです。