デジタル・ジャングル 大学受験,社会全般 【学校の抱える問題~清風高校事件を通じての一考察】

【学校の抱える問題~清風高校事件を通じての一考察】

 以下長文にはなりますが、これから私立高校相手のビジネスを展開することを考えて、これは言及せずにはいられないと思うと同時に、業種を問わず織運営に携わっている経営者・管理者及びいずれはその地位に就きたいと思っておられる方々にお読みいただければと思います。

 

事実の概要等及び論点の諸相

 大阪・清風高校でカンニングをした生徒が1週間の自宅謹慎、被推薦権の剥奪に止まらず写経80枚、全科目0点、反省文作成、反省日誌作成、心得書写などのペナルティを課せられ、母親の目前で複数の教師に卑怯者と叱責・罵倒された挙げ句自殺に至ったという忌まわしい事件が発覚して少し経過しました。

 ネットでの意見を見ると、「清風高校では昔からそういうペナルティがあり、またスパルタ教育で有名だったので仕方がない」「カンニングは卑怯な行為なのだから言われて当たり前」等という意見が多数を占めているように思われ、ショックというか暗澹としました。

 分かり易く言うと、「分かってないな」ということです。

 なぜそう思うかというと、この事件の論点がふたつあることを理解出来ていない人が多いと思うからです。

 ふたつの論点というのは①違反行為とペナルティとの関連性が妥当と言えるものであったかどうかと②規則に基づいて権限を適切に行使したと言えるかどうかと言う点です。

 会社などの組織運営にも通じる問題ではないかと思い、以下、少し考察しました。

 

①違反行為とペナルティの関連性に関して

 確かにカンニングというのは試験による公平な成績評価を妨害するという意味で許されない行為ではあります。ですから何らかのペナルティを課せられるのは当然です。

 けれども課せられるべきペナルティは、妥当な懲戒権の行使の下当該違反行為の再発を防止する趣旨のものでなければならないはずです。懲戒権の妥当な行使であると言えるかどうかは当該違反行為の再発を防止する趣旨のありようによって決まるものです。

 

 この場合、具体的な状況が分からないからどうとも言えませんが、一般論としてカンニングという違反行為が行なわれるのは成績至上主義による自己の成績への過度の拘り及び当該科目に対する低い学習意欲及び成績不振があると考えられることから、学習意欲の促進により成績向上が期待できる状況を構築する措置を講じるべきであったと思います。

 成る程、成績至上主義までも是正すべきではないかという意見もあろうかと思いますが、懲戒権の行使というのが謂わば応急措置的なものであり、成績至上主義の背景が私立大学などを中心とした推薦入学の枠の飛躍的増大が背景にある事を踏まえると、それこそ政府・文科省をも巻き込んだ抜本的な制度の見直しにも繋がり、それはまず不可能である事を考えると、そこまで言及すべきではないと考えられます。

 

 さて、講じるべき学習意欲の促進により成績向上が期待できる状況を構築する措置として、今回のペナルティが妥当であったかという問題になりますが、結論として、全体的に妥当ではなかったと言わざるを得ないと思います。

 

 1)1週間の自宅謹慎に関しては妥当な措置であったと言えますが、被推薦権の剥奪に関しては、今後の生徒の学習意欲を削ぐことになりかねないことを考えると、果たして妥当か疑問符が付きます。

 確かに一見懲罰権の行使としては妥当と思われますが、それは飽くまで当該違反行為の再発防止及び生徒の学習意欲の促進、成績向上に資する場合に限ります。

 例えば、補習を受けさせた上で追試をし、暫く(1~2ヶ月程度)状況を観察した上で改善されたと判断すれば被推薦権を回復するということも可能であったはずです。

 2)反省文作成、反省日誌に作成に関して、課す事自体は特に問題はないと思われますが、問題はどのような内容を書かせるかです。単に「反省しました」という内容の文章を書かせるのならば、再発防止には繋がりませんし、過度な強制によると生徒の内心の自由(憲法一九条)を侵害することになりかねません。

 なぜ当該違反行為を行なうに至ったのか及び自らが再発しないためにどのように自己を律するのかを記述させねばなりません

 違反行為の背景を知ることで教職員は今後の対策を立てられるし(発生したことに関して教職員にも非はなかったとは言い切れません)、生徒に自戒に基づく自律を求めることで健全な独立した人格形成にも影響を及ぼすからです。

 3)全科目0点にするという措置に関しては、当該科目以外にカンニングをしたという決定的証拠があるのならば格別、そうでない限りは明らかにやり過ぎ、権限の濫用と言わざるを得ません。

 4)写経80枚、心得書写に関しては、話になりません。理由は極めて簡単で、生徒の学習意欲の促進及び成績向上に資するところが全くないと言わざるを得ないからです。心得違いも甚だしいと言わざるを得ません。

 更に言うと、写経というのは仏教において仏の境地、悟りの境地に近付くための神聖なる行為と位置付けられているとのことであり、飽くまで自発的にすべきであると思われますが、それを懲罰の一環と位置付けることに矛盾を感じざるを得ないのではないでしょうか。それならば、理事長なりが自ら訓戒を垂れるなどの措置をした方がまだマシというものですが、果たしてこういう組織においてそれだけの見識を備えたトップなり管理職が存在し得るのか甚だ疑問ではあります。「上乱れれば下またこれに倣う」「勇将の下に弱卒なし」です。

 

②規則に基づいて権限を適切に行使したと言えるか

 確かにカンニングというのは卑怯な行為です。これを卑怯と非難するのは当たり前と言えば当たり前です。しかしながら、卑怯「者」呼ばわりする、というのは人格否定そのものであり、凡そ科目指導を通じて青少年の人格的自律性を涵養する立場にある教職員のすべきことであるとは到底言えません

 父親という同性の親の前でと言うのならばパターナリズムに則った理解と事後の措置が期待できるから未だしも(それでも結論は変わりませんが)、母親の前で叱責・罵倒というのは行き過ぎ以外の何物でもありません。一般論として男性に比して女性が物理的に弱い存在であり、恫喝に対する免疫を期待できないことを考えると尚更。

 しかも、複数の教職員によってと言うことは、心理的状況も踏まえると多勢に無勢、生徒を卑怯者呼ばわりするのは勝手ですが、どちらが卑怯かと言いたくなります。これは吊し上げです。

 以上から適切な権限行使などではなく権限濫用・逸脱であったと言わざるを得ません。

 従って、定立した規則そのものに大いに改善すべき点があり及び規則による権限行使が濫用・逸脱であったことをから、全体として清風高校に学校組織の運営上大いに問題があったと言わざるを得ません

 

最後に~まとめ・雑感

 もっと素朴に考えて、死刑制度に関して廃止論というのが年々高まっているのに、今回のこの事件に関して、ネットで生徒を一方的に批判する意見が多かったのは、同じく罪刑のバランス論や制度趣旨論を論ずる必要があることから、どうなのかなと大いに疑問があります。

 取り敢えず以上の事を考えましたが、それにしても学校側の肩を持つ意見が余りにも多いのは、思考停止社会という状況下でバランス感覚を失している輩が多いせいではないかと思わざるを得ません。

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