「先生」と呼ばれるに相応しいですか?
こちらの続きです。
世の中、「先生」と呼ばれる人種は様々にあります。政治家から弁護士、医者、税理士、会計士・・・、勿論学校などの教育機関の指導者も含まれます。
多くの場合、共通しているのが「専門的な技術を用いて仕事をする」ということです。
ところが、実際には資格を持っていても専門的な技術を持ち合わせているかどうか怪しい人はそれなりにいるようです。継続的に仕事に関して勉強していないからそうなるのです。
私共は中等教育に関連する教育事業体ですが、特にその分野では多いような気がします。
私立校などでは出入りの教材出版社の説明(というか接待)を受けてどの会社のどの教材を使うかを決める、その基準は自分の能力の限界を超えないものであるかどうか・・・、まぁそういうところでしょう。
が、よく考えて下さい。貴方はどういう理由で、直接であろうが間接的であろうが誰から給料をもらっていますか?それでちゃんと仕事が出来ると思っていますか?
というか考えるまでもないでしょう。学校において「先生」と呼ばれる人は、直接的には学校から、間接的には保護者から給料という形でお金をもらっており、それに見合った仕事をしなくてはならない、その仕事というのは勉強を通じて生徒の心身の健全なる成長を促すことです。
確かに、労働環境としての教育現場は改善の余地が色々あると思いますが、自分の能力を高められていないというのならば、大いに反省すべきであると思います。
「指導力」を備える出発点
ではどうすれば良いのでしょうか?答えは簡単、「勉強すること」です。ただし、闇雲にしても長続きしません。それこそ、今、中堅進学校で横行している、「授業一杯、宿題ドッサリ、足りなきゃ補講」と同じ、無駄な努力です。
よく考えることです、自分の指導科目のテーマを。自分の言葉で「なぜその科目を勉強しなければならないか」を説明できますか?「その科目を勉強することで何が得られるか」を示すことが出来ますか?
出来ないならば出来るようにしましょう。3月4月は年度替わりの時期で色々大変でしょうが、4月から始まる1学期の初めに数学の先生なら「数学を担当するけれども、数学を勉強する面白さは~だよ」とか、古典を教えているなら「古典なんて知らなくても生きていけるけれども~という理由で勉強しなくてはならないのです」と授業の冒頭で言えるくらいでないと駄目だし、実際に言っても良いと思います。
今、多様性が叫ばれている時代ですが、逆説的にそれだけ社会から多様性がなくなりつつある時代ではないかと些か危惧しています。それだけに、自分の言葉で物事の本質を的確に分かり易く説明できる能力が今まで以上に重要となっているのではないでしょうか?
ちなみに、私共、デジタル・ジャングルは英数国に関して説明できます。多分、聞いたら当たり前過ぎて拍子抜けするかもしれませんが、本質なんて「コロンブスの卵」みたいなものかな、と自己弁護ついでに(笑)考えております。