「孫子」より
「え?数学の話をするんでしょ?『孫子』なんて古典の話をするんですか?」と思う人もいるかもしれませんが、まぁ最後までお付き合いください。
『孫子』の一節に「「凡(およ)そ戦いは正を以て合い奇を以て勝つ」というのがあるのですが、「大体闘争というのは正攻法で相手とぶつかり、奇策を駆使して勝利を得るものである」というほどの意味です。
しかしよく考えてください。奇策を駆使するにはどうすれば良いのでしょうか?思いつきに頼るのですか?それだとビギナーズラックは期待できても、それ以上は望めません。
じゃあどうすれば良いか?
「型」です。
ありきたりな答えですが、奇策を駆使するには、アイデアが湧くようにするには勉強することです。勉強するのは基本を会得するためです。「基本」とは、「その分野で継続的に成果を出し続けるために必要不可欠な技能」です。「型」と言っても良いでしょう。
ひとつの「基本」=「型」を会得する、やがてそういう基本が体系的に出来上がってくる・・・、となるともっと上手く、楽して戦えないか、課題に取り組めないかという欲が生まれます。この欲は極めて健全な欲望です。知識欲という奴でしょう。
それが「別解」です。
数学なんかその最たる例です。ところが、昨今、予備校の模擬試験でも学校のテストでも別解で正解を導いても減点されたり0点で返ってきたりということが往々にしてあると聞いています。指導者が不勉強なのか、そうしなければお金儲けが出来ないのか、あるいは他にもっと理由があるのか知りませんが、勿体ない話だな、数学を学ぶ意味を分かっていないなと思います。
少し横道に話が逸れましたが、「別解」というのはその生徒(あるいは指導者)オリジナルの引き出しです。引き出しが多ければ多いほど対応能力が向上するのは数学でも他の科目でも、あるいは勉強に限らず研究やビジネスでも同じ話です。
「別解」という引き出しを増やすこと、あるいはその真似事との違いを分かり易く言うと・・・、
型を会得するために練習・稽古を積む。やがて一定の型が出来れば、次は更に練習を積んで会得した型を破ることになる、それが「型破り」。けれども、練習・稽古の量が足りずに型破りの真似事をすると「型なし」になる。
これは、故・十八代目中村勘三郎丈の言葉ですが、歌舞伎でもそうなのだなと改めて感心します。
そうこう考えて、もう少し点景として遠くから眺めていると、数学という科目は理論科目と言われていますが、少なくとも大学受験においては暗記科目という側面もあるのかなと思わなくもありません。
こういうのをパラダイムシフトというのでしょうか?