分かり易かった昔
久しぶりに大きなテーマで話します。なぜ大きなテーマで話すかというと、これが分からなければ何も分からない、指導する側も水先案内出来ないし、生徒の側もモチベーションの維持が覚束ないのではないかと思うからです。
「偏差値」、あるいは「学歴」というとどういうイメージを抱く言葉でしょうか?高い「偏差値」、高い「学歴」というと、それこそ具体的に東大理Ⅲとかそういう具体的な名前が出てくる人も多いと思います。
まぁ、トップから動かないという意味で言うと、東大ってのは北極星みたいな存在でしょうが、子供に高「学歴」を求める保護者の欲求の源泉にあるのは、昔(約20年ほど前まで)なら、「良い学校に入って、良い大学に進み、良い職場に就職して欲しい」というところでしょう。
ところで、ここにいう「良い」とはどういうことでしょうか?この保護者の願望に言葉を補うとすれば、「そうなれば、安定した生活を送ることが出来る」というところだったと思います。
この背景にあるのは終身雇用です。ストレートで大学を出て22歳で大企業に就職、30歳前後で係長、30代後半で課長になり、本部と支部を行ったり来たりして50歳前後で部長に・・・、運が良ければ役員、普通にしていれば子会社の専務程度で上がり・・・、まるで『島耕作』の世界です。
終身雇用のメリットは人生設計を組みやすいということです。27歳前後で結婚、32歳程度で郊外に一戸建てを購入、25年ローンで完済するのは定年3年前、って感じですね。あと、メリットがあるとすれば、これは特にエンジニアの世界なんかであると思いますが、解雇されにくいということなので、じっくり腰を据えて仕事に取り組めるということもあります。だからこそ、日本社会では様々な技術革新が起きた、とよく説明されます。原丈人氏の著書などを紐解けばそこら辺の詳しい話は分かります。興味のある人は読んで下さい。
と、少し脱線しましたが、要するに昔でいう「良い」というのは「安定」「保険」という価値観を前提にしていた訳です。
「裸の能力」を求められるようになった現在
ところが「安定」「保険」という言葉は、バブル崩壊と長引くデフレ不況にによって幻になってしまいました。終身雇用の崩壊です。具体的に言うと、40歳前になれば誰でも潜在的にリストラ要員になるということです。これにより産業界に人材を供給する教育界でも価値基準の変更を迫られました。経済産業省主催の未来人材会議なんかのペーパーを見ると、「これからの人材に求められるのは、問題発見能力と問題解決能力」みたいなことが書かれています。
(それにしてもよく書いたものだと思います。霞ヶ関や永田町に問題発見能力や問題解決能力が少しでも備わっていれば、日本社会、ここまで荒廃しなかった筈です。責任転嫁も甚だしいというか「人の振り見て我が振り直せ」とはこのことよ、と些か呆れる思いですね)
となると、「学歴」「偏差値」の意味合いも変わる筈なのです。
さて、ではどのように意味づけが変わるのかという話ですが、「学歴」ってのは昔は安定した生活を得るためのプラチナチケットみたいな位置づけだったのが、今の時代においては「その人がホワイトカラーとして生きていくためにどの程度基礎学力を備えているか」の推定材料になったと考えられます。
「推定」ですから、「推定無罪」って言葉があるように簡単に覆ることもあります。
もう少し話を進めると、労働市場って平面で「偏差値」とか「学歴」って物差しを見ると、確かに昔同様、「良い学校から良い大学に進んで良い職場に就職」ってのは同じなんですが、「良い」って言葉の意味が「安定」から「スキルアップ」「成長」に変わってしまったと思われます。勿論背景には終身雇用のメルトダウンがあり、それにより今まで以上に剥き出しの個人の能力が要求されるようになったというのがります。
今までも「スキルアップ」「成長」ってのは散々叫ばれてきたし、それらは「安定」と両立し得ないものでもありませんが、それこそ「安定」という潮が引いて浅瀬が浮かび上がった結果、「スキルアップ」とか「成長」って言葉が浮き上がってきたような感じでしょうね。
受験社会への影響とその課題
勿論、その影響は労働市場だけに止まるものではありません。労働力をマーケットに供給する大学の採用試験、つまり入試にも影響はあります。総合型入試(AO入試)の大々的な導入などはその現れでしょう(これに関してはこちらを参照下さい)。
ただし、セコンドとかトレーナーとして見た場合、些か改善の余地があるのではないかなと思わないでもありません。
まぁここからは些か荒唐無稽な極論もかなり入っていますが、例えば面接。精々20分か30分程度受験生と試験官がコミュニケーションを取って合否を左右する評価をすると言うことですが、果たしてそれで満足のいく評価が出来るのかなと思わなくもありません。「大学の先生には千里眼でもあるのか」と自分が受験生の頃から思っていましたし、今も思っています。受験生の方は極限られた時間で試験官を納得させなければならない(場合によって欺さなければならない)訳ですから、これで全力を尽くせるのかな、同じ緊張をするにしても客観的評価に馴染む筆記試験の方が公平という意味でマシじゃないかと思うわけです。
それでも面接試験を課すというのならば、例えば3日間くらい衣食を共にし、起居をじっくり観察するとかした方が余程良い、そのほうが受験生一人一人の個性や本性を深く把握出来、誰が自分の大学で学ぶに相応しいか、受験生にも大学側にも納得できる形で決めることが出来るのではないかと思います。
小論文にしても、折角一般入試(二次試験)と違うルートを作ったのだから、二次試験に求められるスピード性とは対極の、じっくり考えるスタンスってことで1泊2日くらいで結構まとまった文章を書かせる位のことをやっても良いのでは、とたまに思うことがあります。
ここまでやっちゃうとまるで「科挙」ですし、「科挙」をやってしまうと、遍く人材を採用するという意味での大学入試の(少なくとも建前上の)趣旨に反することになりかねません。
流石に1泊2日のタイムスケジュールでひとつのテーマを与えた上でまとまった文章を書かせるというのはやり過ぎでしょうが、それにしても面接のあり方は代えた方が良いでしょうね。どんな学生に学んで欲しいのかを具体的かつ明確に考えていれば、面接のあるべき姿も見えてくるでしょうし、変えるべきは変えられるようになるでしょう。
勿論、従来型の二次試験にも影響を与えたことも確かですが、いずれにせよ大学というのが建前上は広く門戸を広げる研究・教育機関であるならば、誰でもちゃんと勉強すれば入れる入試システムであって欲しいのは当然でしょう。その意味で総合型入試よりも一般入試の方が制度としては優れているのではないかと思いますが、これはまた別の機会にお話しできればと思います。

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