敢えて「偏差値」性善説に立って・・・
「人間が二人いれば格差が生まれ、三人いれば派閥が出来る」というのは真理を衝いた名言でしょう。だから「偏差値」ってのはあって当たり前なんだ、ってのは必要悪として「偏差値」を正当化する説明です。
確かにその通りだとは思うのですが、これだけだとちょっとつまらないなと思いますね。もうちょっと積極的というか肯定的な意味を与えるならば、「なりたい自分」になる可能性を高める指標が「偏差値」だと思うのです。
以前にもお話ししたように、「偏差値」という言葉の同時代的な意味は変容しています。当事者である生徒にとっての意味は「安定した生活を得るためのプラチナチケット」から「仕事におけるスキルアップを通じて『なりたい自分』になれるチャンスを得るための資格」という程の意味になりつつあると思われます。そこには「安定」はありません、あるのは生存競争であり、個人としての剥き出しの能力が要求されます。
と、随分どぎつい話になりましたが、求められる能力というのは問題発見能力と問題解決能力とのこと、これを言い出しているのが役所であることを踏まえると些か白々しく感じざるを得ないのですが、いずれにせよその根底にあるのは論理的思考力。論理的思考力を前提に、情報収集力、情報分析力、情報伝達能力が要求されるのは言うまでもありません。「観察→分析→表現」のプロセスを正確に踏めるかが勝負ということです。
少し脱線すると、これから人口減少社会、今まで見たいに労働集約型のビジネスモデルは通用しません。かと言って、資本集約型への移行にも限度があります。ではどうするか?会議で仕事を廻さなければなりません。そのための予行演習として位置付けられるべきが「アクティブラーニング」であるとの説明が可能です(が、なかなかそういう説明をする人がいないのも真実)。
と、ここまで色々お話ししましたが、「偏差値」とか「学歴」という物差しを否定・批判することは簡単だし、一見歯切れ良く見えるのでしょうが、これらの指標がいつまでも残っている、機能しているというのはこれに替わる分かり易い物差しがないからです。社会システムや価値観が変容しても「偏差値」や「学歴」が一定の影響力を残しているのはそういうことです。
生徒ばかりに求められない「偏差値」
「偏差値」というと受験生とか生徒の学力の指標であり、彼等だけに要求されるものと言うイメージが一般的だと思います。模擬試験で良い判定を取るにはどの程度の偏差値が必要、ってあれですね。
けれども、それ以外の人にも偏差値は要求されると思います。具体的に言うと指導者です。
指導者がどこの大学を出ているとかいうのもあるいは大切かもしれませんが、それ以上に重要なことがあります。指導力の指標としての偏差値です。
どこの大学に教え子を何人入れるように指導したってことです。これによって、少なくともその指導者の「指導力」という名の守備範囲が推定できます。
ただし、これもちょっと下罠がある、額面通りに見ることが出来ない場合があります。「推定」というのはそういうことです。
例えば、有名進学校に通う生徒ばかりを集めて運営している進学塾なんて、その「推定」が覆る可能性のある事例ではないでしょうか。彼等の多くはそこに通わなくても恐らく第一志望(具体的には東大京大等)に合格できるかもしれません、有名進学校に通っているメリットっていうのはそのためのノウハウを日常的に手に入れられることですから。あるいはそういう学校に通っているという時点でそうでない生徒よりもアドバンテージがあることも否定できないはずです。
大手予備校・進学塾などの宣伝で「昨年度はうちから800人東大に合格しました」とかいうフレーズを見ることが多いですが、あれなどは有名進学校に通っているそこそこ出来る生徒を囲うことで水増ししていると思われ、そこで教えている指導者は東大とかマニュアルやマニュアルやノウハウを伝授することにかけては成る程見るべきものはあると思いますが、果たして基本を一から叩き込む能力まであるのか、些か疑わしいのではないかと思われます。
今、たまたま「マニュアル」と「基本」という言葉が出て来ましたが、「基本」は余程の制度変更がない限り不変ですが、「マニュアル」というのは傾向が変われば変わってしまうし、変えなければ有益的でなくなる代物であるということを忘れないで下さい。
学校(中学校・高校)の教職員の場合、「基本」から指導しなければなりません。だから自分自身が「基本」をこなせることは当然、「基本」の指導も出来なければなりません。
しかしながら、「基本」の指導を受けただけで所謂難関大学を志望する生徒の大半が目的に到達することは困難です。+αが必要です。それが「マニュアル」という名の受験対策になるわけです。
「基本」と「マニュアル」とは密接に関連していますから、別物に扱うことは出来ません。「基本」は反復練習しなければ会得できない厄介な代物です。やる方も面倒くさいでしょうが、やらされる側も退屈です。だからこそ、到達点としての「マニュアル」を用意しても良いかなと思います。アウトプット中心の指導ですね。「基本」をきっちりこなせるようになればこういうことだって出来るという餌を与えるということですね。
「基本」を大切にしながら「マニュアル」を無理なく生徒に理解させる-これこそが学校の教職員(というか指導者全般)に求められる能力であり、その指標が「偏差値」であるべきではないでしょうか。
これからの予備校と学校の関係
と、ここに来て、少し話題を変えます。賛否は兎も角(個人的には「否」ですが)、高校授業料無償化が実現する運びとなりました。これにより経済的事情に左右されずに私立高校にも入れる生徒が飛躍的に増えることでしょう。
けれども相変わらず世の中生きていくのが大変な時代です。誰もが大手予備校や進学塾に通えるなんてことはありません。大体、模擬試験の受験料が一回当り7千円以上、浪人した場合の年間授業料は120万円以上、30年前なら半分かそれ以下です。恐らく現役生の一コマ当りの受講料も同じ程度の伸び率でしょう。
大体、それだけの費用を賄える保護者・家庭がどの程度あるのでしょうか?仮に現役高校生の年間授業料を65万円と仮定しても、それだけの可処分所得を支払える親はかなり少ないと思われます。
両親と子供二人という(伝統的にありがちな)家族構成の場合、世帯所得は平均で780万円程度とされていますが、これで可処分所得を65万以上用意して受験対策の廻すというのはかなり難しいのではないかと思われます。それ以上の所得層の場合でも、一見可処分所得の増加が期待できるように思われますが、交際費や何やかんやで結局それほど変わらない筈です。
となると、学校は彼らにとって「最後の砦」のような存在になり、教職員は命綱のような損座である筈です。だから学校関係者には頑張ってもらわねばならない、平たく言うとそういうことです。
勿論、このままではマーケットが収縮して経営環境が厳しくなるばかりの教育産業(予備校等)ですから、ただ手を拱いているわけでもないでしょう。学校をクライアントとしたコンサルティングに乗り出す業者もある筈ですし、実際にもういます。それはそれで無理からぬ動きですが、学校関係者の皆さんにはひと言、「欺されないようにして下さい、自分達にとって何が必要かをよく理解した上で、不必要なサービスまで買わされないようにして下さい」ということを申し上げたいと思います。

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