詰め込み式教育の限界
昔と比べて大学入試も随分と変わってきたなと思います。大体、小論文と面接で受験生の能力を試す総合型入試(AO入試)がこれだけ市民権を得て来たって事に隔世の感を感じますよね。
東大や京大をはじめとする国公立二次試験の入試問題を見てもやっぱり変化を感じます。東大はそこまで変化を感じないのですが、京大以下の大学に関しては目覚ましい変化を感じますね。例えば、京大は制度として2009年度から工学部でも二次試験で国語を受験しなければならなくなりました(これに関してはいずれ言及する予定です)。内容面においては、英語は昔は英文和訳の大問2個に和文英訳の大問1個という出題パターンが崩れて、例えば2024年度は英文和訳問題の中に少し総合問題のような要素を取り入れたかと思えば、2025年度は昔の出題パターンに戻ったのかなと思えば、4つめの大問で英文で議論できるかを問う出題がなされたりしています。試行錯誤の段階にあるとも言えますし、敢えて出題パターンを作らないことで受験生の能力を多角的に見ようとしているとも考えられます。国語に関しては、擬古文が出題されなくなった(大学当局は出題しないとは明言していませんが)こと以外出題傾向に変化はありませんが、解答欄のあり方が昔のように大きなスペースに好きなだけ記述するというのから、3行なら3行で記述させるという形式に変わりました。これは暗に字数制限を設けていると言うことです。
他の大学も推して量るべしです。英語で要約文を書かせる出題もあれば、本文の途中に空白を作り、そこに論理矛盾しないように自由英作文をさせるなんて出題もあるでしょう。
数学に関しては別異の議論が必要でしょうが、少なくとも英語と国語に関して言えることは、一昔前までのパターンやマニュアルを頭に入れれば良いという詰め込み式教育では太刀打ちできなくなっているのではないかということです。それだけに普段からの積み重ねが重要、というまぁ極ありきたりなフレーズに落ち着くわけです。
やるべきことは何か、何を教えるべきか?
となると、学校や予備校の先生の中にはあたふたと不安に思う人もいるかもしれません、「だったら、生徒達に何を教えれば良いのか」と。
それに対する私共、デジタル・ジャングルの答えは極めてシンプル、
「状況判断という当たり前のことを教えましょう」です。もう少し具体的に言うと、「言われたことに正確に答えられるように教えましょう。そのために出題者の意図を読みましょう」です。
これが以外に出来てないんじゃないかなと思うことが結構あります。小論文なら小論文、英語なら英語、国語なら国語、問われている能力があるはずであり、それは年々近似してきている、ってか重なって来ている。それこそぼやけていた焦点が一点に集中するような感じになっていると思います。それを教えれば良いんです。
例えば「要約」ってどういうことかちゃんと教えていますか?これが出来ていないと議論もへったくれもなし、したがって文章のひとつもまともに書けないはずなんです。相手の主張を理解した上で簡潔に表現しなければ、これを批評した上で自説を展開するなんて出来ますか?あったら教えて欲しいものです。
酷いものだなと思うことがありますよ、特に小論文の指導なんかで。小論文って最後は自説の展開になるのですが、真っ当な指導もせず「自分の人生での体験・経験から得たことを題意に添って書きなさい」なんて指導をする人もいるようです。
「自分の体験及び経験から思うところを述べなさい」というのならば格別、そうでない限りはこういう指導はすべきではないと思います。って言うか、やっている指導者がいればその人は、まともな指導も出来ないのに保護者から指導料を欺し取っているという意味で、詐欺師です。大体、そんな文章、採点官(大概の場合、大学の助教から講師クラスの新進気鋭の研究者)が嬉しがって読むと思いますか?大学が本当に欲しがっている人材、読みたいと思わせる答案がどんなものかを分かってない輩が気軽に指導なんてするものではありません。
一定以上のレベルの大学(特に旧帝大、早慶など)ならばきちんと議論できる学生が欲しいはずです。だから生徒に対して議論のやり方を指導するのが指導者の仕事です。それを端から放棄するのであれば指導者失格です。
勿論、それ以外にも指導せねばならないことはあります。必要書類の書き方、面接への臨み方もそうですが、小論文に絞って言うならば、学部で学ぶ内容に関して基本的な事がどこまで分かっているのかとかです。そのために例えばどんな本を紐解いて、自分はそれに関してどのように考えているかと言うことですね。
それらを日頃から考える際においても議論のやり方を正確に使いこなせるように頭を訓練する必要があります。
そのためには日頃から指導する側も業務(授業以外の同僚との話し合いなども含めて)を通じて「情報収集(聞く・読む)→情報分析(要約)→情報伝達(書く・話す)」という一連の動きを意識して、正確に行なうようにしなければなりません。
AO入試の二次試験に与える影響
と、ようやくここまで来て本題と思しき小見出しを出したわけでありますが(笑)、そろそろ分かっていただきたいんです、AO入試と二次試験(特に国語)の共通点を。
結論から言うと、「要約」なんです。と言うか、国語の問題作りでいつも心懸けているって言うか、遍く出題者が心懸けていなければ可笑しいって思うことってのは、設問に対する模範答案の全てを続けて読むと本文の要約になるようでなくてはならない、ということです。問題の難易度に拘わらず、そうでなくては本質を衝いたという意味で良問とは言えない筈です。逆に言うと、受験生は自分の答案を見て、そこから本文のテーマが浮き上がるよう出ないのならばそれは(少なくともその問題に関しては)理解が足りないということを認識して下さい、ということです。
これは現代文だけでなく古典でも同じ話です。考えてみて下さい、大昔に書かれたものが今の時代にまで語り継がれているってそれなりに意味があるのです。それをきちんと理解出来ていれば誰だって良い答案、合格点をもらえる答案は書ける筈です。そこのところをちゃんと理解した上で指導できる指導者、何人いますかという話なのです、私共が言いたいのは。
と、ちょっとヒートアップしてしまいましたが(苦笑)、AO入試であれ二次試験であれ、求められる「国語力」というのは「要約」する力、キーワードを逃さず把握する力です。どんなに美辞麗句を並べたところで肝心要のそれらを外していれば0点、(文法的にぐちゃぐちゃなのは論外ですが)多少稚拙な文体でもきっちりそこのところを外していないのであれば充分合格点は狙えると言うことです。
どんなに予備校マニュアルを身に付けたところで、そういう「基本」を身に付けていなければコンスタントに成果を得られないのは当たり前です。「基本」とはその分野で継続的に成果を得るために不可欠な技能を言いますから。
国語とか小論文の話に限って言うと、受験生の諸君には自分の書いた答案から本文の内容が浮かび上がらないようであれば、それは少なくともその本文に関しては理解が不十分であると認識して下さい。
そういうことを踏まえた上で、もう一度こちらをご一読いただければと思います。

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