こんなことをやっていませんか?~古典不要論への反論
古典って何で学ばなければならないのか、という素朴な疑問が本日のテーマです。
割と多く見かけることだし、少し前にミュージシャンの野田洋次郎氏が古典不要論の論拠としてtwitter(現X)で発言していたことですが、条件反射的に古文なら文節で区切って読み進める、漢文なら矢鱈と句形に拘って「熟読」するなんてことをしていませんか?
あるいは、そのような指導をしている先生を見たことがありませんか?
と言うか、もしそういう指導をされている先生方がいらっしゃるならば、「それで生徒が学習意欲を維持できると思いますか?」「自分がそういう勉強をしていて楽しくて、何か得るものがありましたか?」と。
「点数を得た」という反論もあると思いますが、「他に何か得るものはありましたか?」と改めて問いたい思いです。古典を指導する多くの先生方が大学乃至大学院で日本文学などを研究されていたことを考えると、少々寒々しい答えではないかと思います。
もうちょっと古典という分野を学んだことの楽しさを生徒に伝える姿勢が欲しいと思うのは言うまでもありません。
ありふれた疑問~当たり前のことを疑いなさい
昔から素朴な疑問に思っていることがあるんです。高校の古典の教科書を見ると、今も昔も判で押したように『枕草子』とか『徒然草』の序文が鎮座しているのがどうも不思議に思えるのです。大昔の高校時代からそう感じています。って言うか、高校時代は自分が教育を受ける側の当事者だったから、「こんなのどこが面白いのか?」と思わざるを得ませんでした。有り体に言うと退屈にしか思わなかったのです。
「春は曙」で始まる「枕草子」に関しては、清少納言に「だから何?」と言いたくなりそうな感じでしたし、「つれづれなるままに日暮ら」す兼好法師には「暇で良いですね、こっちには関係ないけど」って思いましたね。今でも思っています。あれを見て、あれだけを見て古典の面白さを見出すことが出来る高校生がいたらそれこそ天才じゃないかなと今でも思っています。
けれども、今も昔もそういう声は殆ど聞こえてきません。多分、高校時代の私と同じように感じている生徒や教職員も結構いるとは思うのですが、沈黙。
少し脱線しますが、自分と古典との本格的な出会いは中学2年生の6月頃だったと記憶しています。夕方に書店で立ち読みするのが趣味だったのですが、前から少し気になっていた講談社学術文庫の『大鏡』の現代語訳を立ち読みしたんですね。その時に「なんだこれは」って衝撃を受けたんです。思春期真っ只中のその頃はまだそんな言葉を知らなかったー知ったのは談志師匠の噺を聞いてから-ですが、人間の業のエッセンスを「雅」が昇華したとされている王朝時代に投影したこの書き物にぞっこんになったのです。
今思うと我ながら変な中学生だったんだなと思います。けれどもその変な中学生が高校に入学した時に手渡された教科書にあった『徒然草』の序文を見て、面白いと思うほうが無理じゃないでしょうか?
自分自身はそう思ったけれども、なかなか周りにそう言う人はいませんでした。教師も生徒も同じです。「それが教科書にあるから、勉強しよう、目を通そう」なんです。
今の時代なら「これで主体的に学習できますか?」とクレームが来ても可笑しくないと思いますが、そういう時代だったのです。
当たり前のことを当たり前じゃないんじゃないかと疑えない、疑ったとしてもそれを口にすれば異端扱いを受ける時代だったのです。その意味で今の時代の生徒は(少なくとも建前上は)昔よりも幸せだとは思います。
だから、生徒もどんどん指導者に言えば良いと思うんです、「こうこうこういう話があれば扱って欲しい」とかって。勿論、全ての要望を聞くことは不可能ですが、能力の高い指導者ならば、あれこれと工夫してそれなりの教材を作ることは可能なはずです。
古典を学ぶ意義~こうすれば生徒は古典を学ぶ
このブログを読んでくださる方々はかなり意識が高いと思われるので、あるいは読む前から「古典なんて知らなくても生きていけるのに、なぜこんなことを態々やらなきゃらならいのだ」と思われている方も多いと思います。

健全な疑問です。
そこで私共、デジタル・ジャングルでは古典を学ぶ意義を以下のように考えております。
人間社会というのはルールという理屈、原則論で動いている。ルールというのは原則論。原則には例外がある。例外とは個別事情、つまり「情」の世界。これは昔から変わらない。だから私達が古典を学ぶ意義は、「情」と「理」の棲み分けのあり方を理解することにある。
勿論、全てが全て、このように説明できるわけではありませんが、取り敢えず私共の考えはこれです。
100人指導者がいれば100通りの説明やイズムがあって当たり前です。しかしながら、古典を学ぶ意義が得点力アップのためと言うのは少し浅い見識だし、それで果たして生徒が心が折れることがなく最後まで付いてくることが出来るでしょうか?
勿論、大学入試という関門がある以上、得点力アップというのは至上命題ではあるでしょうが、「深い理解が出来るようになりました。ついでにテストで高い得点が出来るようになりました」となるのが理想的だし、それは可能なはずです。
以前、「指導者は須く生徒や保護者にとって最も身近な文化人であるべし」というようなことをお話ししました(こちら参照)が、少し具体的なことをいうと、こういう事なのです。
自分の仕事のテーマ性を意識して、自分の言葉を持って仕事をしましょう。
