厳しくなる経営環境
何度も言ったと思いますが、中高一貫の私立校の経営環境は年々厳しくなっています。背景にあるのは言わずもがな、少子化の深刻化が挙げられます。しかしながら、それだけで経営環境が厳しくなっている訳ではありません。そこに大学入試に関する制度の大改革があり、文科省からの殆ど干渉とでも言うべき介入もあります。
大体、デジタル教科書の普及を目指す方向とのことですが、デジタル教育の最先端である北欧諸国では学習効果が得られないことを理由にデジタル教科書の普及を断念したと言います。もしも日本と北欧に事情の違いというものがあり、それがデジタル教科書による教育の学習効果を期待できるものであるというのならそのことを説明する義務が文科省にはある筈です。
あるいは、センター試験から新たに共通テストが導入されましたが、その制度趣旨は東大や京大等を目指すトップ層の受験生の一次選抜段階での差が生まれにくいからとのことでしたが、実際に制度が実施されてもそういった受験生間の差が明確になたという話は残念ながら聞いたことがありません。それだけではありません。数学などは数理科学の思考力を党問題と言うよりも事務処理能力を計測する問題であるようであり、理念倒れと言わざるを得ません。
アクティブラーニングの励行を文科省は提唱していますが、ではなぜアクティブラーニングをしなければならないのか、理解出来る説明をしてくれていません。そんなですから(最近は少しマシになったかもしれませんが)、どうすれば良いのか試行錯誤が随分と続いたのも事実です。
チグハグで場当たり的な制度改革により教育現場の混乱が深まったことも経営環境が厳しくなったことに拍車を掛けていると言えましょう。
「面倒見の良い学校」~三類型に分かれる私立学校
こうして経営環境が厳しくなる中で特に私立の中高一貫校は経営改革を迫られます。そうした中高一貫校には大別三類型があるように思われますが、少しその事に関して言及したいと思います。

まず前提として忘れてならないのは、偏差値という概念が昔ほど絶対的な物差しではなくなったということです。背景に総合型入試が市民権を得たことなどが挙げられます。
そのことを前提に偏差値という物差しから割と自由な学校が存在します。上図に言う「偏差値フリーの学校」です。
しかし、相変わらず偏差値という概念は存在しており、その中で生き残ろうと決めている学校もあります。そして、それらの学校は更に二つの類型に分けることが出来ます。すなわち、一つ目が「偏差値の真ん中で自由を謳歌している学校」です。最大公約数的に言うと超有名進学校です。この学校では教員は(少なくとも表面上は)マイペースで仕事をし、生徒は文化祭だ体育祭だと学校行事や部活に励みながらも勉強も頑張り、行きたい進路に進む、そういう学校です。具体名を出すならば灘校や筑駒等でしょう。
学校経営というのは「進学実績の向上」と「文化祭などの学校行事が充実していること」を抑えることが出来ていれば大概の場合上手く行きそうなものじゃないかと思うのですが、その具体的なイメージはここにあったのですね。
それは兎も角、問題はそのどちらの類型にも当てはまらない学校です。これが「偏差値の土俵際の学校」です。すなわち上の図で言うと黄色の部分にカテゴライズされる学校です。どういう学校かと言えば、「偏差値フリーになるのは取り敢えず止めておく、やっぱり目指すならば『偏差値の真ん中で自由を謳歌する学校(超有名進学校)』だけれども、なかなかそこに行くまでは難しい。そこで、生徒に対しては『保護』という名の『管理』をする。具体的には、授業イッパイ、宿題ドッサリ、それでも足りなければ予備校や個別指導教室を活用して補講。これにより生徒の保護者には『面倒見の良さ』をアピールできる」というものです。早い話が「偏差値の土俵際の学校」というのは「面倒見の良い学校」なのです。
「面倒見の良い学校」の陥る罠
大体、「面倒見の良い学校」というのは「偏差値の土俵際の学校」なのですが、それだけに「改革」と称してやっていることを見ると痛々しいほどです。と言うか、「あるいはこれはカモにされているのではないかしら」と思います。
具体的に話しましょう。
「面倒見の良い学校」の内実は「偏差値の土俵際の学校」なのですが、それだけに進学実績への拘りが強い。そこで色んな取組みをやらなくてはなりません。進学塾周り、進学塾やマスコミが主宰する合同入試説明会への休日返上の参加と言った営業・広報、会計作業、備品管理(総務)・・・、これらの主語は殆どの場合において教員です。
よくこれだけ仕事があるものだとある意味感心しますが、当事者たる教員としては堪ったものではない。これでは疲弊するばかりです。
そこで「労務管理」と称して登場するのが予備校なり個別指導教室です。個別指導教室の方がメジャーのようです。恐らく彼等が各校の理事長などの経営陣にアプローチする際に用いる営業トークというのは「今の時代、先生方の仕事は多岐に渉って、なかなか生徒一人一人に行き届いた指導が難しくなっていると思われます。これ以上先生方に労働を強いるとそれこそ組合争議になりかねないことでしょう。そこで、私共に放課後の指導をお任せいただいたならば、先生方を必要以上の生徒の指導から解放して差し上げることが出来るでしょう。私共にお任せ下さい」というところでしょう。
ただ、よく考えて下さい。教員の仕事は「生徒に勉強を教えること」です。もう少し正確に言うと「勉強を教えることで生徒に社会で生きていくための頭の使い方を示すこと」です。それを外部の人間に一任するというのは素直に考えて理屈に合わないのではないでしょうか?
成る程、この疑問に対して反論もあるでしょう。すなわち、「教員は生徒への勉強の指導以外にも仕事上の生き甲斐、アイデンティティを求めている、部活が良い例じゃないか」というものです。
確かに部活はそうかもしれませんし、指導する教員に部活の内容に関して一定の知見があれば教育効果を認めることも出来ましょう。
しかしながら、営業や広報、会計や総務に仕事上のやり甲斐やアイデンティティを求めるというのはどういうものでしょうか。況してや、生徒への指導という根本を等閑(あるいは犠牲)にしてまでやって良いものでしょうか?一般のサラリーマンにとって若い人々への指導は副次的な任務ですが、教員の場合はそちらがメインであることを踏まえると、本末転倒と言わざるを得ないと思われます。
例えば、学校内で重大な事故やスキャンダルが発生した際に、マスコミなどを相手に記者会見をする際等は広報の腕の見せ所だとは思うのですが、果たして教員は広報のプロなのでしょうか?それならばなぜ一般企業で広報として働かないのでしょうか?そう考えても、可笑しな事をやっていると言えるのではないでしょうか?
何ら可笑しな事を言ってはいません。また、トリッキーな事も言っていません。ただ、(故意か過失かは分かりませんが)「労務管理」の名の下に、学校の、教員の本来の機能を低下させる動きがあると言うのは確かなようです。
これから機会があれば、少しずつ私どもの眼から見て、可笑しいと思う点に関して指摘し、その都度改善策を示して行ければと思います。